■ 第7回BunDoku哲学カフェ開催報告


テーマ:「死とはなにか?」
日 時:2015年1月4日(日)16:30~18:30
会 場:眞光寺さん(大分市寒田)
参加者:15名

BunDoku哲学カフェ、ファシリテーターのシミズです。
第7回目のBunDoku哲学カフェを開催しました。新年早々の会でしたが15名の参加者の方々にお集まりいただき、たいへんありがとうございました。今回はBunDoku案内人の影浦と眞光寺住職の水智さんとのご縁により念願のお寺での開催となりました。

今回のお題はお寺での開催ということもあり「死とは何か?」に設定しました。
僕が大学で哲学科を専攻した理由の一つに、幼少期より死に対する関心が高かったこと、高校時代に親しい友人が亡くなったこと、死とは何かを考えたかったということを話しました。はじめに「死」という言葉から連想されるイメージを聞いたところ、畏怖や不謹慎、迂闊には口にできない、日本では言霊という考えにより口にすると災厄を招くといったネガティブなイメージがあるとする一方、10代の頃はある心中事件を見て「きれい」や「憧れ」のイメージがあったと応える方もいました。

 

終末期ケアの仕事に就かれていて、日常的に死と接している方からの言葉は観念とは違う、以下の具体的でリアルな言葉が聞けました。
「死に方は生き方につながる」
「死ぬとき、その人の生き方が凝縮される」
「お金や物はもっていけない。思い出だけが残る」
「死んで忘れられるのが辛いので、私が覚えていますよと言うと安心する」

 

突然死ぬのがいいのか、猶予宣告(例えばガンなど)があって死ぬのがいいのかという問いにも、私が死んだ後のことは知らん、死んで迷惑をかけてもいいんだ、海外から来られた方は一人で死んでもいい、今は片付けてくれる業者がいるといったドライな意見も聞かれました。全然自分のことは覚えてくれなくてもいい、忘れられてもいいという声が多かったですが、死に際でも同じことが言えるのか分かりません。死は誰にとっても未体験で一度限りのものでしょうから。

 

もし今、死んだとしたら後悔はありますか?あるとしたらなぜそれを今しないのですか?という鋭い問いもありました。僕は考えながら、今すぐには死ないだろうという根拠のない確信(幻想)に支えられて生きている。ある哲学者が言うように、それは死に対して目を背けた、本来的な生き方からかけ離れた生き方だとしても、いつまでも続くと思い込んで生きることも人間の生の条件、もっと言えば尊厳であるかもしれないと考えました。

欧米ではデス・カフェと言って、「死」について語り合うコミュニティが流行っているようです。僕も「死」については禁忌すべきものではなく、カジュアルに語る社会が成熟した社会なのではと考えています。死について語ることはそのまま反転して生について語ることに繋がることを今回を通して痛感しました。社会が原始状態から離れていくにつれて、死は排除されていくようです。人間の死だけでなく、普段口にしている牛や鳥の死も隠された風景となっています。それはまた生きることの排除なのかもしれません。
また幽霊や終活、愛と死など今回語り足りない面が多々ありましたので、BunDokuデス・カフェとしてスピンアウトしていくのも意義深いかなと思いました。眞光寺の水智ご夫妻の丁寧なおもてなしもあり、素敵な時間を過ごすことができました。ありがとうございました。

BunDoku哲学カフェは今後も月1回のペースで開催いたします。話すテーマや会場選び、進行方法など趣向を凝らして実りある対話に繋げていきたいと考えています。どうぞ今後ともよろしくお願いします。

 


<参考文献>


存在と時間』(ハイデガー)

存在、死について哲学された20世紀最高の哲学書。未完。

ツァラトストラかく語りき』『この人を見よ』(ニーチェ) 
永劫回帰について書かれています。

歎異抄

親鸞の弟子によって書かれた親鸞の思想書。前述のハイデガーが晩年に読んで驚嘆し、10年出会うのが遅かったと言わしめた書。

旅立ちの朝に』(曽野綾子/アルフォンス・デーケン共著)
死学を創始したデーケン教授と曽根綾子の往復書簡集。