■ 第15回BunDoku哲学カフェ開催報告

 

テーマ:「リア充とは何か?」
日 時:2015年9月12日(土)18:30~21:30

会 場:二八堂ギャラリーさん(大分市中央町)
参加者:15名


BunDoku哲学カフェ、ファシリテーターのシミズです。第15回目のBunDoku哲学カフェを開催しました。今回は初参加者合わせて15名の参加者の方々にお集まりいただき、たいへんありがとうございました。

 

今回のテーマは「リア充とは何か?」です。
ネット発信から出た言葉、概念をみんなで対話するというのは初でしたが、そもそもインターネットやSNSをあまりされていない方としている方とで大きな認識の差がありました。以下ざっくりとあげられた内容を列記していきます。


リア充と幸せの違い、自死を選ばない人がリア充、ネタがベタ化してしまった概念、階級闘争の一種だが比較は意味をなさない、「俺とは違う」という線引き行為、リア充は本人自身からは基本言わず、あの人リア充だよねと言うことで非リア充の結束が高まるコミュニケーションとしての言語、自分に持っていないものを持っている者への嫉妬、自己肯定感のなさ、自分への評価軸が他者にある、他人からの承認欲求の強さ、などなどたくさんの各人各様のリア充像が話されました。
リアル(現実)世界とネット世界の隔たりを規定するものとして匿名か実名かというのと、その人と会う気になるかどうかが基準となるという対話もなされました。


最終的には、スクール・カーストの例も挙げられながらリア充とか非リア充といった文脈の外に出ることの重要性にたどりついたように思いますが、もう既にみなさんその外にいる方たちがほとんどだという印象があり、いやそもそも「リア充」っているのかという、芯のないらっきょうの皮むきのような空虚さで、リア充も非リア充も同じ穴のムジナ、お前はお前のままでいろ、という強い自己肯定が出たところでお開きとなりました。


私個人のファシリテーターとしての反省として、今回は「分析」に偏ってしまったかなというのがあります。分析というのは、数学を解くように言葉を足して不明瞭な部分を明確にしていき、定義するというゴールを目指すものですが、哲学はむしろ答えのない問いを発する営みでもあります。例えば、「リア充はなんで空疎に見えるのか?」とか「なんで我々は自己(他者)を規定したがるのか?」といった問いをすべきだったかなと今では考えます。


今回は初の3時間バージョンで、紙を使って対話の初めと終わりに各人の考えをまとめてもらいました。話しきった充実感もあれば、間延びしたかなと思うところもありますが、これも参加人数やテーマによって様相は変わってくることと思います。また機会があれば試みたいと思います。

BunDoku哲学カフェは今後も月1回のペースで開催いたします。話すテーマや会場選び、進行方法など趣向を凝らして実りある対話に繋げていきたいと考えています。どうぞ今後ともよろしくお願いします。

 


〈参考図書〉


『秋葉原事件 加藤智大の軌跡』中島岳志(朝日文庫)
『ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか』香山リカ(朝日新書)
『地獄の季節』アルチュール・ランボー/小林秀雄訳(岩波文庫)

 


〈参考映画〉


スクール・カーストについて
「桐島、部活やめるってよ」(2012年日本)監督吉田大八


お前のままでいるということ
「ザ・マスター」(2012年米)監督ポール・トーマス・アンダーソン