■ 第32回BunDoku哲学カフェ

 

テーマ:「許すとはどういうことか」

日 時:2017年2月25日(土)19:30~21:30

会 場:ホルトホール(大分市)

参加者:20名

 

ファシリテーターのミキです。第32回BunDoku哲学カフェのテーマは「許すとはどういうことか」でした。初参加の3名を含む計20名で開催いたしました。対話の一部をご紹介します。

 

===対話前・許すことのイメージ===

 

〈忘却。手放して受容する〉、〈正しいと思うことへのこだわりをなくす〉、〈楽になる。許さないでいるのは、自らを苦しい状態に置き続けること〉、〈重要事項の枠外に出す〉、〈自分が強くなる〉、〈本当に動詞?心なのか行為なのか〉、〈受けた行為に勝る愛や情を感じた時〉、〈油。人間関係を円滑にする〉、〈相手に対する貸し(損失)の回収をあきらめる〉などが語られました。

 

===対話===

 

許しには個人と社会とで違いがあるのか、人は何によって許すのか(刑罰、時間の経過、身体感覚、個人の成長etc.)、そもそも許さないといけないのかなどについて、敢えて細かくテーマを限局せず、自由に対話を重ねていきました。

 

〈「よし許そう」と思って許せるものではない、訪れるもの〉、〈渦中にある時はわからない。俯瞰して見られるようになった時に、とらわれていたことがわかる〉、〈人間は自分で感情をコントロールできない〉、〈許しは強制されるものじゃない〉などが語られました。

 

===対話を経て===

 

〈許さないでいるってエネルギーがいる〉、〈子々孫々、良い方向へ向かうことを祈り続けたい〉、〈無理にしなくてもいいことなのかな〉、〈広い心で人に接する〉、〈秋になり、自然と葉が落ちるような〉、〈許せる確率が少しでもアップしますように〉、〈許せる自分のそばに居たい〉、〈無知や傲慢さを乗り越える修行〉、〈人の内面に起きる革命〉などが語られました。〈自分自身への許しについても話してみたかった〉という方もいました。

 

私個人の感想ですが、許すという行為が持つ「解放」のイメージが、許される対象だけでなく許す側にも対話を通して常に結び付いている点が面白かったです。

 

悲惨で理不尽なできごとへの悲嘆、怒りは自然な感情だと感じます。しかし自分でも不思議なほど許せない気持ちが生じるのは、対象の向こう側に、自らを縛り囲い込む自己の価値観の狭量さを感覚的に看取、嫌悪するからかもしれないと思いました。だからこそ、許しが訪れた時には許した側にある種の解放感がともなうのかもしれないなあと。

 

許しへの潜在的な志向性に時の経過が重なっただけでは起きないプロセス、そこに必要な何かに向かってそっと手を伸ばしていくような、そんな対話であったように思いました。参加者のみなさま、運営スタッフのみなさまに感謝いたします。大変お疲れさまでした!

 

哲学カフェは今後も月1回のペースで開催いたします。話すテーマや会場選び、進行方法など趣向を凝らして実りある対話に繋げていきたいと考えています。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。