■ 第8回BunDoku哲学カフェ開催報告


テーマ:「暴力とはなにか?」
日 時:2015年2月7日(土)19:00~21:00
会 場:ホルトホール401会議室(和室)
参加者:20名

 

BunDoku哲学カフェ、ファシリテーターのシミズです。第8回目のBunDoku哲学カフェを開催しました。今回20名の参加者の方々にお集まりいただき、たいへんありがとうございました。初のホルトホールでの開催で和室も新しく、スクリーンなどの設備も充実しており居心地の良い場所でした。

 

今回採り上げたテーマは「暴力とはなにか?」です。新しい試みとして対話の導入部に映画をいくつか見てみるというのを試してみました。映像が言葉を喚起し、よりリアリティのある対話ができるのではと考えました。
映画はそれぞれ系統の違う暴力の有り様を提示。警察のような国家権力による暴力、他の生物のいのちを食べるという暴力、家庭内での暴力、テロの暴力、国家による死刑という暴力を見てもらいました。
最初に映画の感想を聞いたところ、文化による暴力の違いや日本は平和という意見、これは表現されたもの、現実はこんなものではないという指摘もありました。死刑を受ける人間が最後に遺した「誰に謝ればいいかわからない」という言葉が胸に刻まれたという方もいました。世界情勢の中で、殺戮シーンが映画のように編集され動画サイトに投稿されてしまう現実にどのように向き合うのか。ただ単に暴力を嫌悪するだけではその背景は見えてこない、そこを一歩踏み込んで考えることが大事だとする意見も。後半部はいじめの体験、あるいは加虐の快楽について何名かの方から勇気のある体験談を聞くことができました。自己の尊厳回復のための暴力や認知症の方の暴力など「暴力の基準」が文脈によって変わってくる、それが暴力だと誰が決めるのだろうかという根本的な問いも出ました。

暴力というテーマで対話をしましたが、そのテーマの裾野の広さゆえ、個人から国家まで話題が広がりすぎて核心を掴めず時間が来てしまいました。個人であれ国家であれ通奏低音のように響いている暴力の噴出口をもっと明るみにできたかもしれないと思いました。食べること、生きること、虐めること、抵抗すること、殺すこと…人間の存在論的に孕む宿業としての暴力、生の条件としての暴力を今こそ善悪を超えて考える必要があるでしょう。そしてそれをどう乗り越えるのかというところまで話したかったですね。たとえば「赦し」といった。

BunDoku哲学カフェは今後も月1回のペースで開催いたします。話すテーマや会場選び、進行方法など趣向を凝らして実りある対話に繋げていきたいと考えています。どうぞ今後ともよろしくお願いします。



<参照映画>


「その男、凶暴につき」(1989年製作)北野武監督
「いのちの食べかた」(2005年製作)ニコラウス・ゲイハルター監督
「風の中の雌鳥」(1948年製作)小津安二郎監督
「エレファント」(2003年製作)ガス・ヴァン・サント監督
「冷血」(1967年製作)リチャード・ブルックス監督
「ある精肉店のはなし」(2013年製作)纐纈あや監督

<参考文献>


「死刑のある国ニッポン」(森達也・藤井誠二共著)
「いのちの食べかた」(森達也)
「暴力はいけないことだと誰もがいうけれど」(萱野稔人)
「永遠平和のために」(エマニュエル・カント)
「なめとこ山の熊」(宮沢賢治)