■ 第28回BunDoku哲学カフェ開催報告

 

テーマ:「寂しさはどこから来るのか」

日時:2016年10月22日(土)18:30~20:30

場所:ホルトホール(大分市)

参加者:12名

 

ファシリテーターのミキです。第28回BunDoku哲学カフェは、初参加の方2名を含む計12名での開催となりました。参加者のみなさま、運営スタッフのみなさまお疲れさまでした!

 

「寂しさ」というテーマから、秋の夜長にしみじみとした雰囲気になるかな…と思いきや、それぞれの考える寂しさについて縦横無尽に(笑)語り合う、活発な対話の場となりました。ほんの一部をご紹介します。

 

===対話前のイメージ===

 

〈喪失感に由来する〉、〈もう取り戻せない事態への思い〉、〈気温の変化〉など移りゆくものや変化に対して生じる感覚。〈ひとりで死にゆく寄る辺なさ〉、〈昼は皆と喋って楽しくても、夜家でひとりになると寂しい〉などの感覚。〈つながりの欠乏〉、〈人とつながっていたいという本能〉、〈内側から来るもの。欠けている、共有できないという感じ〉などが語られました。

 

===対話===

 

衰退や死に寂寥感を抱くという意見が多い中、〈大分駅は改装されて前より栄えているけど寂しい。もう戻れない感じがした〉というエピソードから〈確かに「私」の痕跡がない。祖母と歩いた駅の通路がなくなって寂しい〉、〈自身が慣れ親しんだものかどうかが重要なのかも〉と、主体的に関わったことがあるものの記憶と現在・現実とのギャップが寂しさの由来として浮上しました。

 

一方、過去に関わったことがなくても〈あえて寂しい場所(廃墟など)を探して訪ねる人もいる〉、〈エクアドルの歌を聴き、歌詞の意味はわからないが寂しくて泣いた。母を想って作られた歌だと後から知った〉と、時代や言語、文化を超えて通じる寂しさについても指摘がありました。

 

さらに〈寂しさは共有できると思うか?〉という問いから、他者とわかり合うことについて対話が発展。〈わかり合いすぎる寂しさもある〉、〈日本の教育は「わかり合える」という前提に縛られている。わかり合えないことにもっと自覚的になった方がいい〉、〈わかり合えないからこそ、反発したり寄り添ったりする〉と、更なる対話の鉱脈を掘り当てたところで時間となりました。

 

===対話後のイメージ===

 

寂しさは〈意外と肯定的なものかも〉、〈体験してこそ人に寄り添える〉、〈寂しくてもええやん。わかり合えないかもしれないけど一緒に考えたい〉、〈寂しい時に自分と対話して強くなる。一番成長する時間〉、〈他人と共有できないという覚悟を持ってプラスアルファを探っていくことが必要〉、〈寂しさは他者とわかり合えない絶望から来る。けれど、自分を自分として根拠づける希望でもある〉などが語られました。

 

私個人の感想としては、「寂しさ」について語ることを通して、わかり合えないはず(?)の個々人が一つの場所に集まり新たな地平を探るという、哲学カフェの面白味を再確認した回でもあったように感じます。

 

漠然とした不安を伴っていた「寂しさ」を複眼的にとらえようと試みることで、その滋味豊かな側面に気付き、以前より親しみ深く感じるようになれたことは大きな収穫でした!

 

哲学カフェは今後も月1回のペースで開催いたします。話すテーマや会場選び、進行方法など趣向を凝らして実りある対話に繋げていきたいと考えています。

 

どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。